Making of JAPAN SENSES Campaign

三越伊勢丹百貨店 ~ Japan Senses ~
Apr. 14, 2017

「秘すれば花なり、、、」
世阿弥の言葉にいざなわれた、東京の4月上旬に行うお花見とは違った桜の世界を提案し、「日本の美」について新しいを発想を促すウインドー ディスプレイ

2月某日、プランクスの佐藤寧子ディレクターに次のような依頼をいただきました。

「三越伊勢丹のJAPAN SENSES にて発信するキャンペーンにおいて、メインビジュアルに起用した能アーティスト青木涼子さん、そして、観阿弥・世阿弥の残した能の美意識、表現方法に着想を得て桜を描いてほしい。さらに1面ごとのウインドーを舞台として捉え、美しいだけでなく、目に見えていない(内面の)サクラや、アートとして表現されたインスピレーションからのサクラ、など人が携わるからこそ、美しくあるサクラ、を生み出してほしい」と。

私は花をたくさん描いている印象がありますが、今まで桜を描いたことがありませんでした。なぜなら桜は私にとって花というよりは風景であり、ましてや本物より美しく描ける気は到底しなかった。さらには今まで見てきた絵画の中の桜に感動したこともなかったからです。なにしろ描くのが大変そう、、笑。団体競技より個人の技に魅かれる私は、単独で美をまとった花が好き。宮崎駿氏が波を描くのが面倒だから海が舞台の物語は今まで描いてこなかった、、」と言っていたのに同感します。そんな気持ちをディレクターに告げると、「これまでに無かったものに取り組んでくださることで、私たちのびっくりするような見たことのないため息もののなにかが、牧さんの手によって実現されることを信じています。この勘は外れたことがありません。」とその細い体で、みなぎる確信をおっしゃたところから、私のクリエーションはスタートしました。

伊勢丹のウインドーは、新宿通り、明治通りを囲むようにぐるっと12面あります。まず交差点の3面連なるメインのウインドーとされるところに、大きな桜の樹を描くことにしました。しだれ桜のような、桜吹雪をまとったような樹です。この樹を中心に世阿弥の言葉 × 桜が織りなす物語/舞台が始まるイメージです。言葉は「秘すれば花なり、、、」という世阿弥の真骨頂なるものを選び、永遠と降りつづくような桜吹雪の中、世阿弥の言葉とともに時空を超え、イメジネーションの世界へ誘うはじまりにしました。

次に双子のウインドーと呼ばれる新宿通り2面は、能の演目の中でも多く登場する、あちら側とこちら側の世界、をテーマにしています。 仮に1面をこちら側の現実世界とするならば、反転した2面のビジュアルがあちら側の世界を表しています。しかし色はあちら側の方が生を思わせる赤で表現され、情念さながらもえたぎっています。どちらが本当の(現実の?)世界なのか、惑わせる(考えさせる)という戯曲でも描かれる要素を取り込んでいます。 またカマキリは、メスがオスを食べることによって種をつないでいくという、究極の生命のありようとして登場させました。また、日本の美として必ず表現される「花鳥風月」と少し違った毛色を出すためでもあります。つまり世阿弥がさいさん言葉にしている、面白き、や、めずらしき、を意識したものです。

交差点脇の小さなウインドーから明治通り1-5面は、まさに実際の能舞台からのインスピレーションを受け、ミニマムな表現にしたいという意向で進めました。繊細、または凝った質感や造形で魅せるというよりは、書き割りのようなシンプルさにマジカルな要素、摩訶不思議さを加え、能の舞台のように想像力によってあらゆる方向にイマジネーションが飛べるような仕組みを考えています。

配色は、赤 黒 白、またはそれらのグラデーションというミニマムな世界にまとめました。モノクロを色と数えないとすると、赤の1色の展開になります。この限りなくミニマムな配色は、「日本の美」を象徴する、間、や、シンプリシティを表しており、季節感よりも日本の美を表現したく取り組んだ結果でもあります。また、色数が少ないことは見る者に限りのない色を想像させます。前述と重なりますが、能の世界の醍醐味である各々のイマジネーションが作り出す各々の楽しみ、を誘う要素として考えています。

これらの構成が、世阿弥の言葉にいざなわれた、いわゆるこの季節に行うお花見とは違ったサクラの世界を提案し、観る者に改めて「日本の美」について思い巡らせ、新しいを発想をうながすこと目指して思案し描きました。この構成が、セットデザイナー南志保の手によって空間として演出され、プランクスのスタッフの緻密なデザイン制作がこれらのビジョンを現実の世界に生み出し、多くのスタッフの手によってウインドーディスプレイとして完成しました。

そして、開催の2週間、多くの人々の視点が私たちの想像を超えて、あらゆる新しい世界を独自に生み出していることを、撮られた写真の中から、ウインドーを覗く姿から、また感想をいただく言葉や表情の中から感じました。世阿弥の提唱した「面白きが花なり」の精神は、600年経った今でも私たち現代人の中に衰えることなく生きているのです。今回はウインドーという百貨店の窓を通して生まれた事実ですが、今後人類が続く限り、人ひとりひとりの創造とイマジネーションが果てしなく美しく想像を超えて上昇してゆくことが私の願いであり、その一端となれることがクリエーターとしての心の支えでもあります。